理解したいエゴと傲慢さ(に向き合った結果、一旦避けることにする)
うまくいかないときは文字を書いて思考を整理(アウトプット)して、自分の脳みそで足りないときは本を読んで知識を増やしたり他者と話して価値観を広げたりする(インプット)。
文字を書くことは言語化することで、言語化することは可視化することだ。私にとっては図に起こせることこそが理解という感覚がある。だからベン図が好きだし、人物相関図が好きだ。物語の構造に萌えるのも同じことだと思う。でもそれはフィクションにおけるメタの話。
ノンフィクションにおいて、感情はどうしたって分類できない。分類してしまおうとすること自体が傲慢なのだと思う。
けれど知りたいのだ。理解することで親しくなれると感じてしまうのだ。似ていることに心地よさを覚える相手になら尚更、自分と異なる部分について理解したいという気持ちが湧いてきてしまう。これもきっと比較構図でコミュニケーションを図ろうとしてしまう弊害なのだと思う。でもそういう質(タチ)なのだ。これが私だ。
違いによって衝突し、それでも親しくありたい、より深く理解したいと感じる。それ自体がきっとエゴだと思う。エゴを肯定/否定する文脈に話のオチを求めてない。そのエゴを貫こうとした先にあるコミュニケーションの破綻について、あるいは修復について想いを巡らせている。
私はきっと、話が平行線に終わることが苦手だ。
苦手だけれど理解はできる。思想や思考として相容れなくても「そういう人もいる」「そういう場合もある」「そういう考え方もある」と受けいれる。これが【多様性を肯定する】だと思う。そこにあることを認める。混ざり合えなくてもいい相手ならこれでいい。適切な距離を保ち衝突を避けることがなによりもお互いを尊重することだと思う。
じゃあ、混ざり合えないことに寂しさを感じる相手だったらどうだろう。こんなことを書き始めると結局「自他境界の曖昧さがすべての原因である! 自立しろ! 論」に帰結していく気がしてならないけれど、心底困っているのだ。
【距離を置く】が使えない関係性の場合、私は【話し合う】ことで理解しようとしてしまう。けれどそれが上手くいかない。上手くいかない理由は様々だけれど、私の「知りたさ」の程度に問題があるように感じる。
【なあなあにしておく】ことができない。例えそれが私のための嘘であっても暴こうとしてしまう。喧嘩にならないように呑み込んでくれた言葉さえも言わせようとしてしまう。相手の思いやりを台無しにしている自覚はある。頑固で真面目で潔癖なのだ。自覚があっても咄嗟に見ないふりをできない。
問い詰めてしまうと当然怖がらせ、言葉に詰まった相手を泣かせてしまう。自分が感情を言語化することを苦に思わないせいで、すべての人間がそうであるように錯覚してしまう。そうじゃないらしい。言語化される感情なんて表層に過ぎないと、フィクションの中でならわかることなのに、泣かれてしまうまで同じことを繰り返してしまう。
何を考えているかわかりたいと思っているだけなのに、と感じてしまう。でもそれはきっとコミュニケーションにおいては傲慢なのだ。踏み込ませたくない領域に足を踏み入れている。私が侵害している。ならばやはり、私が境界線の外に出るよりほかない、と思う。
【時間が解決してくれる】は万能の切り札だけれど、その間の寂しさは代償として大きすぎる。なぜ相手の回避行動を優しさとして即座に受け止められないのだろう。なぜ全ての言動に言語化できる理由を求めてしまうのだろう。
散々思案して、【棚上げする】という逃げ道を見つけ出した。今はこれしか思いつかなかった。
【見ないふりをする】では、いつか膨らんだ感情が爆発して取り返しがつかなくなってしまいそうでどうしても怖い。でも今【話し合う】ができない以上、問題を抱えたままコマを進められない。ならば一度置いて行ってもいいことにする。冒険を始めた当初どうにも歯が立たない敵であっても、経験値を積んだ後に過去のマップに戻ってみたらラクに倒せる場合もある。
そういうふうに上手くやっていくしかない。完璧主義のきらいがあるのだと思う。1面ごとに100%攻略してからじゃないと次の面に進めないような、そういう難儀な性格が邪魔をしているのかもしれない。経験値が足りていないのだ。レベルが上がれば使える技も増える。体力も増えるし火力も上がる。防御も回避も運も変わってくる。
書いていたらなんとかなる気がしてきた。同じことを繰り返さないための思考の覚書。
丸裸にされること、同志への目配せ
ブログを書きたいという気持ちがある。
もっと言うならば「文章を書きたい」という気持ちだ。私にとって書くことは幼い頃から、一番的確に心を取り出して他者に手渡せる表現手段だった。口語でも音楽でも絵でもなく、日本語で綴るところに意義を見出していた。得意だとも感じていた。
それこそこういった「書くことのルーツ」にあたる話を、もうなんべんも、あらゆるところで書いてきた。ブログを転々とするたび、承認欲求を満たすために、表現欲求を満たすために、自分のことを理解するために。
私にとって書くことは、とっ散らかった思考を棚卸しし整理整頓して、なんならいつでも貸し出せるところまで持っていくことだった。だから「誰のため」「なんのため」に書いているのかが明確でないと書けなくなる。
特定の誰かのためにと作られた創作物は強い。書籍の表紙をめくったとき、献辞のある物語に憧れた。それが誰宛だろうと、なんなら過去や未来の自分宛だろうと、まだ見ぬ読者であろうと構わないけれど、対象者を明確に思い描いて伝えたいものを投げかける言葉は心を的確に刺す。私はそう思っている。
前書きはこれくらいにして、とにかく私は書くことが好きだ。手紙から始まり、オリジナル小説になり、二次創作小説になっていった。日記は続かなかったけれど、エッセイを読むのは今も好きだ。フィクション・ノンフィクションを問わず、何かに思考を巡らせて丁寧に追っていく作業が好きだし、それを書き記すのが好きだ。それを読み返すのが好きだ。
だからブログという媒体に残したい。でも昔のように書けない。何故か。答えは明確だ。ずっと葛藤している。
文章と向き合うとき、私は嘘がつけない。
格好つけた物言いになってしまうけれどこれが全てだ。丸裸にされる。武装した言葉は人の心を打たないと知っているから。何かを伝えたくて書いているのにそれでは本末転倒だし、そんな中途半端な言葉なら書かないほうがまだマシというものだ。沈黙は金。
でも私は銀でいいから雄弁でありたい。余計なことを口走ってあとから訂正するとしても、その場で燻った想いを留めておけない(そもそもそんなことでは雄弁とは言わないのだが)。
今の私にはこんな初歩的なことができない。丸裸になって無防備に闊歩できない。何もかも曝け出して書けないのであれば、ひいては何もかも曝け出した文章を読んでもらいたい相手のビジョンが明確に浮かばないのであれば、書く意味はないのだ。
傲慢にも「そんなことはない!あなたの書く文章を読んでみたい」というお声をいただく。ありがたいと思う。私もあなたに向けて思想を披露したい。Twitterで散々しているじゃないか、なにを二の足を踏む必要がある。おっしゃる通りである。
だが怖いのだ。このおそれを見て見ぬふりをして、うわべだけの日記を書こうともしてみた。だが自分で読み返しておもしろくないのだ。私はおもしろくない文章を世に放つことはできない。私は常に我が子を愛したいのだ。
自分を曝け出す恐怖に晒されてまで他者に伝えたいことがない。ならば書くなというところに落ち着いてしまう。でもそうやすやすと諦められない。切り捨てられない。
自分に近い話をするのが怖いならフィクションに織り交ぜて書けばいいとも思う。でも私は今更オリジナルで書けるほど創作に意欲を持てていないし、二次創作でそう都合よく自分の思想に合致する作品やキャラクターにハマることはない。なんなら自分の思想を代弁させるためにキャラクターを動かすのは私の二次創作の思想に反してしまうからそれもできない。難儀なものである。
こんなふうにつらつらと書けない理由を連ねておきながらなんだが、私の心を撃ち抜いた思想単語「目配せ」の話をさせてほしい。
私は今抱えているこの「曝け出せなさ」に苦しみ、助けを求めてインターネットの海でロールモデルを探していた。苦しみには大小個人差があるだろうけれど、「曝け出せなさ」に打ち勝って個人体験を書き記してくれてる人の言葉に共感や安堵を得ながら、おかげさまで今私の心はおおよそ凪にある。
ロールモデルたる文章や漫画を読みながら、その母数の少なさにもどかしさを感じていたあるとき、「目配せ」という単語を見た。
そのまま引用するわけにいかないので、ざっくりと掻い摘んで書くと「同じものが好きな人(オタク的趣味や嗜好の話)の中に自分と似た思想(私がさきほどから述べている曝け出せなさの中核)を持つ人を見かけると嬉しくなるから、そういった人への目配せの意味で書くようにしている」というものだった。なんて優しいんだろう、と思った。
そして今私がしたいのもきっとこれなのだと思う。だからさっきまで言っていたことは半分くらい嘘だ。伝えたい相手が居ないわけじゃない。私が見えないところに、ほんの少し前までの私がいるはずで、そういった人に届けたい気持ちがある。
けれど私はお人好しではない。優しくもない。自分の手の届く範囲を愛することに精一杯で、見知らぬ誰かの役に立ちたいという欲求はそんなに無い。私は今凪いでいて、これといって承認欲求で思想を披露して肯定されたいような熱があるわけではないし、身も蓋もないが火急の問題ではないのだと思う。
表現の欲求は「飢え」から来る、と、私は思う。そういう点で、私は今「満ち」ていて、書かないと生きていけない! というような若い頃の生き急ぎは持ち合わせていないのだ。
曝け出す覚悟を持てないせいで、いつまでも「いや〜書きたいんだけどさ〜タハハ」の意味深(いや浅いだろう)キャラになっているのがなんだか落ち着かなかった。何かしらの説明をすべきだと考えて、取り急ぎこの葛藤を記事にしてやろうと思った次第だ。
誰に宛てて書けばいいのかも定まっていないから、文体もこんなふうにふざけたような常体を選んでしまった。感情を乗せて喋るのが怖い。
……なんて書いておきながら、この記事を打ち終えてほんの少しスッキリしている自分のことを、やはり見て見ぬふりし続けるのは難しいだろうなあ。